心理的距離が遠い者同士が相手との心理的距離を縮めるコツ

人と親しくなるのに時間がかかる者には遠慮深いタイプが多い。失礼にならないようにと気を遣うのは当然の心配りではあるが、あまり丁寧に遠慮ばかりされては窮屈である。遠慮というのは、心理的距離の遠い者同士の間に強く働く心理である。したがって、まだそれほど親しくなっていない間柄では、遠慮が強く働くのは当然のことである。しかし、知り合ってからもなお同様の遠慮が働くと、それは心理的な距離が依然として縮まっていないことを暗黙のうちに意味することになる。

いつまでたっても遠慮深さに変化の生じない人を前にして窮屈な感じを受けるのは、心理的距離が縮まった感じがしないからである。それぞれの心理的距離にふさわしい遠慮の程度といったものがある。心理的距離が縮まるにしたがって遠慮の仕方も変わっていくものだが、いつまでも同じ遠慮の仕方がとられると、いっこうに心理的距離が縮まった気がしない、つまり親しくなった気がしない。

遠慮深い人から見ると、「初対面であれではちょっと失礼なのではないか」と眉をひそめるようななれなれしい態度をとる者が、どういうわけか相手に気に入られ親しくなるということがある。これは、心理的距離の近い者同士に用いられる態度をとることで、初対面なのにあたかも心理的距離が近いかのような錯覚が生じ、実際に親しくなってしまうのである。つまり、心理的距離が近くなることによって遠慮が解けていくのを逆用し、遠慮を解くことで心理的距離を縮めていく。

遠慮を次第に解いていくにもコッがあり、そのあたりを心得ている者が、一見不遠慮なくらいのなれなれしさをもって実際にすぐ人と仲良くなっていく。心理的距離のもっとも遠い段階の遠慮の仕方をなかなか解けない者は、人との間の心理的距離を縮めるのが難しい。心理的距離のバランスを崩し、あたかも親しいかのような錯覚を生じさせる方法の一つに頼みごとがある。人に何かを頼むことは、その人に心理的負担をかけることでもある。そこを遠慮せずにあえて頼んでみる。すると二人は頼みごとができる間柄であるとの事実ができあがる。

負担が行き過ぎると拒否にあい逆効果だが、現在の関係からして少しどうかなと思う程度の頼みごとにより、心理的距離を一歩縮めることができるというわけである。ずうずうしいのは問題である。そうかといって、遠慮は人を遠ざける。人との心理的距離がなかなか縮まらないという人は、遠慮の仕方を振り返ってみるのがよい。遠慮を徐々に解くことによって心理的距離を縮めていくのである。

— posted by 有働 at 01:33 am  

 

口下手でも聞き上手は相手の心を開かせる最大の武器になる

営業マンなど人と交渉することの多い職種の人は、何とか話上手になれないものかと雑談のネタを仕入れたり軽やかな話し方を意識したりと苦心しているものである。そうした努力も大事だが、人と交渉するのがやや苦手という人がまず身につけるべきは、相手を気持ちよくしゃべらせる技術ではないか。

話上手の人がさぞかし活躍しているだろうと一般に考えられているセールスでも、意外なことに成績のよい者には内向型が多いという。内向型の人間は、概して初対面を含めてよく知らない人としゃべるのが苦手である。よく知らない人を前にすると、何をしゃべったらよいのかわからない。「こんなことを言っては失礼になるのでは」「気を悪くしたのではないか」「もっと明るく楽しい話をしなければ」など、気を遣うばかりで会話が滞りがちになる。その不器用さが信頼に結びつくということであろうか。

明るい声であいさつをし、楽しい雑談を交えて流暢に説明する人に対すると、「やり手の人だな」との印象を受けるが、その分警戒するということがある。あまりに饒舌で調子のよい者より、口下手ながら一所懸命説明しようとする者の方が、相手としては安心である。

さて、ロ下手な者はもちろんのこと、話上手の者も身につけるべき聞き上手の秘訣とはどんなものだろうか。ポイントは、相手に気持ちよく話させることである。頻繁にうなずくことで、話し手は気分が乗り饒舌になっていく。そして、「なるほど」「そうですね」などと合いの手を入れる。これだけでも共感しながら耳を傾けているというこちらの姿勢は伝わり、相手は気分よく話すことができる。さらに、時々相手の語尾を繰り返すのも有効である。

「その時は本当に腹が立ちましたよ」に対して「それは腹が立ちますね」、「そんなわけで予想がはずれましてね」に対して「はずれましたか」といった具合に。相手の話す出来事・体験談などに類似した知識なり体験がこちらにある場合は、それを披露すればこちらの共感性はよりよく伝わるし、共通性が両者の壁を薄くする。

対話のやりとりのタイミングも大切である。向こうが話しているのに割り込むようなことはしない。言葉が途切れがちにしゃべる人、話し始める前にひと呼吸置く人、強引に会話に割り込むのが苦手な人などは、話す番をすぐ人に持っていかれがちである。そんなタイプの人には十分配慮し、相手の言葉が途切れたからといって急いで話し始めないようにする。

また、自分が話している時、あるいは話し始めた時に向こうが話し出そうとしたら即座に譲る。自分が話すことでアピールするよりも向こうに気持ちよく話してもらうことの方が大事なのであるから、言葉が重なったら必ず譲るのがよい。こうした配慮のもと気持ちよく話してもらうことで、相手の気持ちは和らぎ自分に対する印象は好意的なものとなる。相手の心を開かせるのは何といっても聞き上手である。

— posted by 有働 at 01:28 am  

 

現代に大いに求められる「聞き役」

現代は饒舌の時代である。女は控えめがいい、男は黙っているもの、と控えめや沈黙が重んじられた時代と違って、今はしっかりと自己主張するのがよいとされている。女性のおしゃべりというのは昔からあったが、男性も軽やかに言葉遊びを楽しむようになった。みんなが饒舌になると、にぎやかで楽しい光景があふれてくる。それはそれでよいのだが、何か満たされない感じがどこかに残る。

昼間の喫茶店をのぞいても、夜の居酒屋やパブをのぞいても、老若男女よくしゃべる。すさまじい喧騒である。特に、夜の酒の場ともなると、よほど大きな声でないと会話が成立しない。元気にはしゃいだり、陽気にからかい合ったり、カラオケを楽しんだり。昼間の職場のストレスを一気に吹き飛ばす勢いがある。

そこに足りないものはといえば、心からの対話ではないか。その場を楽しいものへと盛り上げることばかりをみんなが意識する。最近体験したおかしな出来事やちょっとした笑い話、共通の知人のうわさ話などをおもしろおかしく披露したり、ジョークをとばすことはできる。

だが、ふと胸をよぎる孤独や虚しさ、人生の意味や現在の自分の生活に関する疑問や悩み、そんなものをロに出すにはよほどの勇気がいる。勇気を出して内面的な話を持ち出したところで、「ドライ」のご言で片づけられたり、笑い話のネタにされたり、何を場違いなことを言うのだろう、と言いたげな視線で無視されたりということになりがちである。

今や朕病の時代といった観がある。深刻ぶるのは流行らない。軽いノリで楽しくいこう。そうした雰囲気ゆえに、孤独や虚しさ、人生の意味に関する疑問や悩みといった、みんなと一緒の場に持ち出しにくい深刻で暗めの思いが、胸の中に押し込められたままとなる。

こんな時代にこそ求められるのが、静かに胸のうちを吐露するのに付き合ってくれる相手である。おもしろくない話であっても、自分とは境遇や感受性が違い過ぎて共感できないというような話であっても、一切の批評抜きに、無条件に耳を傾けてくれる相手である。これはまさにカウンセラーの役割である。

同業者の首を絞めるようで申し訳ないが、職業人に頼らずに友人同士でこうした役割を必要に応じて分担するのが望ましい。にぎやかな時代だからこそ、静かに耳を傾けてくれる聞き手を誰もが密かに求めているのである。まずは、仲よく騒いでいる仲間にとってのよい聞き手となるよう意識してみよう。きっと相手もよい聞き手になってくれるであろう。

— posted by 有働 at 01:14 am  

ちょっとした心遣いが対人関係を大きく左右する

何の前触れもなく訪ねてきて、こちらの都合も聞かずにいきなり雑談を始めたり、自分の用件を話し始める人がいる。こちらは30分後に会議が控えており、そのための資料作りに追われているというのに、そんなことはおかまいなしに話し続ける。初めのうちは「仕方ないなぁ」と観念して穏やかに相手をしているが、長引くと次第に攻撃的な気持ちが湧いてくる。

このような配慮に欠けた訪問を繰り返していると、知らないところで招かれざる客とのレッテルを貼られることになる。何らかの用件で時間を割いてもらいたい時は、事前に約束を取りつけるのがよいのはもちろんだが、突然訪ねなければならない時は、今ここで話し始めてよいか出直した方がよいかをまず打診し、相手が自分の都合を述べるきっかけを与えるべきである。また、話し始めてからも、相手の動作や表情に注意を払い、相手が急いでいるのに長居し過ぎたり、相手がうんざりしている話題を引きずったりしないよう配慮するのが礼儀である。

資料請求の手紙を受け取ることが多い場合、同じ資料を請求するにも、返信用切手を同封してくる人もいれば、依頼文の便箇しか送ってこない人もいる。大抵は返信用の切手に加えて返信用封筒を同封してくる。その封筒には本人の住所が書かれている。原則として受け取った順に返事を出すことにしていても、どうにも忙しくて仕方がないこともある。

極端な場合は今日出張から帰ってきて明日また出張に出るということもある。その合間に仕事を片づけながら、資料請求などに返事を出す。そのような状況の中、返事するために、わざわざ適当な封筒を探し、相手の住所を書き、郵便局に行って重さに応じた切手を貼ってもらうというのは、なんとも面倒なことである。

返信用封筒に住所も書いてあり、資料の分量を予測して多めの切手が貼ってあれば、こちらは適当な資料を封筒にすべり込ませて、翌日出かけるついでに投函すればよいので、どんなに時間のない時、気持ちにゆとりのない時でも、何とか対応しやすい。それに比べて、返信用の封筒や切手のないものは、どうしても後回しになりやすい。

人に相談する時など、自分の問題で頭が占領されているため、ともすると相手に対する心配りが疎かになりがちである。そもそも相手の置かれた状況などなかなか予測できるものではない。だが、どんな事情があるかわからないからこそ、相手にできるだけ負担をかけない気遣いは欠かせない。

返信用封筒を入れたり、電話や訪問の折に「今ちょっとよろしいですか?」と相手の都合を確認するなど、ほんのちょっとした心遣いだが、これがその後の関係の良否を決することになるのである。

— posted by 有働 at 11:59 pm  

 

人間の対人的な開放性は社交性と自己開示性

ひと目見た瞬間に、とっつきにくい人とかとっつきやすい人といった印象ができあがる。にこやかな表情で適度にしゃべってくれると非常に付き合いやすい感じがする。無表情な人や言葉数が極端に少ない人を前にすると、どう接したらよいかが上手く掴めず戸惑いが生じる。

向こうがにこやかに接してくれると、こちらも心を開きやすい。雑談の中にプライベートな感想や体験談を入れやすい。こちらがプライベートなことをもらせば、向こうも同じ程度にプライベートなことをしゃべりやすい、あるいはしゃべらねばとのプレッシャーが働く。こうしてお互いの心の開き合いが進行するのである。

ところが、どうしても心を開けない人というのがいる。相手がせっかく心を開いてプライベートなことまで話してくれているのに、自分のことはほとんどしゃべらない。これが無ロでいかにもとっつきにくい人であれば、初めから見当がつくので別に意外でもないし、こちらからあえて心を開く気にもならない。相手を戸惑わせるのは、饒舌なのに自らを語ることのない人物である。

人間の対人的な開放性にも二種類あることがわかるだろう。一つは初対面の瞬間の接しやすさを決するもので、いわゆる社交性である。雑談が上手で人の気をそらさない人は社交的な人といえる。もう一つは、自分の本音、内面を人にもらすかどうかを決するもので、自己開示性である。

この二つの開放性はお互いに独立した次元のものである。したがって、社交性が高く、時事的な話、スポーツの話、人のうわさ話、ちょっと変わった話などをおもしろおかしく表情豊かに聞かせ、人の気をそらさないといったタイプではあるが、その人の内面が全然見えてこないという場合がある。

ちょっとプライベートな領域、内面的な話に突っ込まれると、冗談交じりに軽くかわしてしまう。話題は豊かで話し方も上手なのだが、自分の内面をさらすことに対する抵抗が強いのである。反対に、口下手ゆえにいつも無口なのだが、常に本音が見えていて安心できるといったタイプもある。

人に対する心の開き方も人それぞれであり、付き合う際には相手の対人的開放性の特徴を踏まえる必要がある。特に自己開示は心理的距離のバロメーターといえる。仕事をうまく進めるには心理的距離を縮めることが大切である。

ただし、プライベートな領域に強引に踏み込まないように注意が必要である。社交話とこちらの自己開示により相手の心の鎧を少しずつ溶かしつつ、自己開示を引き出すことになる。心理的距離は徐々に縮めていくのがコツである。

— posted by 有働 at 11:48 pm