[ カテゴリー » コミュニケーション ]

勘ぐりはよくない!他人の言動や行動を深読みしない

「廊下ですれ違う時に会釈をしたのに無視された・・・」「声を掛けたのに返事をしてもらえなかった・・・」こんなことがあると「自分は嫌われているのではないか?」と勘ぐりたくなるのもムリはない。「無視という行為が何らかの意図のもとに故意になされたのだ」という前提を無意識のうちに受け入れてしまい、たまたま気づかなかっただけだとは中々考えにくいものである。

だが、自分自身のことを考えてみよう。例えば、忙しくて頭がパニック状態にある時に廊下ですれ違いざまにぶつかった。謝ろうと思いつつも言葉にならないうちに急ぎ足で通り過ぎてしまったとか、考えごとをしながら歩いている時に声を掛けられて「あっ」と思った時には通り過ぎてしまっていた・・・などということはないだろうか。

私自身、目が悪いのに加えて空想癖があるため、知人とすれ違っても気づかないことが多く、またすれ違う直前に向こうから挨拶されて「あっ、何々さんだ!」と相手を認識した瞬間には通り過ぎてしまったりして、挨拶を返すタイミングを逸する。こちらが挨拶しても知らん顔で通り過ぎる人に対しては「どういうことなのだろう・・・」とその真意を疑いたくなることがある。

満員電車で人の足を踏んで謝りもしない者に対して常日ごろ「何と非常識な!」と強い憤りを感じているAさんが、駅に着いて人混みをかき分けながら何とか降りようという際にうっかり足を踏んでしまった相手に対して謝るタイミングを逸するということもあり得る。そして「あんなに混んでいたのだから仕方ない」と自己弁護する。

人間には、一般に自分のマイナスの行為に関しては状況のせいにするのに、同じ行為でも他人によるものは、その行為者の人間性のせいにしたり、何らかの意図があっての行為と解釈する傾向がある。これが人と人との間に誤解を生じる原因となることが少なくない。状況要因によるもので、何の悪意もない同僚や上司の言動を深読みして、

「あの人は私のことをバカにしている」

「きっと私は左遷されるのだ」

というように否定的に解釈すると、その相手に対する態度も居直りや悪意に満ちたものになって、本当に相手から否定的な感情や評価を引き出すことになってしまう。他人の言動は深読みしがちであるということを肝に銘じて、その意味を多少割り引いて解釈するよう心がけるべきでしょう。

— posted by 有働 at 06:52 pm  

自分の役割を型にはめ込まない

夫婦関係のトラブルに関する相談を見ると、どうも役割行動の硬直化に原因があるのではないかと思われるケースが少なくない。家庭生活を平穏に乗り切るために夫も妻もそれぞれの家庭内の役割を意識した心理的構えのもとにそれにふさわしい行動をとる。それは必要不可欠のことではあるのだが、役割行動があまりにもワンパターン化するのは問題である。

例えば夫が帰宅する。そこに待っているのは妻という役割をもった女性である。子どもがいれば母という役割をもった女性である。そこには恋人という役割をもった女性などいない。しかし、この夫には以前は恋人という役割をもった女性(現在の妻あるいは母としての役割をもった女性と同一人物として)がおり、その女性の前では自分も恋人としての役割にふさわしい心理的構えおよび行動をとっていた。今はそれが失われている。このような夫婦関係においては、どちらかに恋人としての役割行動への郷愁が湧いてきた時が危機となる。

それを防ぐには、役割行動の硬直化に。陥らない工夫が必要である。親としての会話しかない夫婦はもちろんのこと、夫婦としての役割行動のやりとりが家庭の維持に関するものばかりで、恋人同士としてのトキメキがないという夫婦は、試しに二人でおしゃれでもして町に出かけてみよう。景色を楽しみながらの散歩でもいいし、雰囲気のよい喫茶店でコーヒーでも飲んだり、ムードのあるレストランやバーで軽くアルコールを入れるのもよい。昔恋人同士であったころの気分を思い出すような空気を夫婦の間に創り出すのである。

同様に、職場の人間関係が堅苦しくてストレスとなるという者は、職場のさまざまな役割関係の中にプライベートな空気を吹き込む工夫をしたらよい。上司に対しては部下としての役割のみに徹しなければと思い過ぎたり、お得意さんに対しては業者としての役割のみに徹しなければとの思いが強過ぎたりするのが問題なのである。上司やお得意さんに対してであっても、お茶目な人間としての面、趣味人としての面など、自分の中の仕事上の役割と関係のない面を出せるようになるとずいぶん楽になる。

職場の人間関係がストレスとなっている者には、対等な立場の同僚との間にさえも自分の中の仕事上の役割に関係ない部分を出すことのできない者が多いようである。役割関係の硬直化を防ぐには、上司と部下、買い手と業者といった役割関係をちょっと抜け出した会話をするのが基本といえる。そこにそれぞれのプライベートな面が顔を出す。プライベートな心の触れ合いは、お互いの心理的距離を縮める。それはまた、役割関係に則った行動をより気持ちよくとることにもつながるのである。

— posted by 有働 at 01:06 pm  

役割行動をうまくこなせば人間関係はスムーズになる

ある男性が帰宅する。居間には妻と子どもがいる。そこでは妻を「おかあさん」と呼び、自分を「おとうさん」と呼ぶ。やがて子どもが寝て夫婦二人きりになると、妻に対して「○○子」と名前を呼び捨てにし、自分を指すのに「俺」とか「僕」とかを使う。

この場合、単に言葉遣いが違うだけでなく、それぞれの場面におけるこの男性の自分のかたち、いわゆる心理的構えも異なるはずである。子どもと一緒の場では「父親」の役割を意識した心理的構えをもち、それにふさわしい言動をとる。夫婦だけの場では「夫」の役割を意識した心理的構えをもち、それにふさわしい言動をとる。このようなその場の役割にふさわしい行動を役割行動という。

この男性も、職場ではまた違った役割行動をとることになる。例えば、課長という役割にふさわしい行動をとる。だが、職場のようないろいろな役割が錯綜する場では、誰もが多くの役割行動を場面に応じて使い分けなければならない。

部下の前では上司としての役割を意識した行動をとり、上司の前では部下としての役割を意識した行動をとる。同僚と一緒の時は対等な仲間あるいはライバルとしての役割を意識した行動をとり、得意先からの訪問客の前では世話になっている業者としての役割を意識した行動をとる。

このように複数の役割行動を場面に応じて自由自在に操ることができないと、社会生活を無事に送ることはできない。われわれはふだんそれほど意識していないけれども、ほとんど自動的に役割行動の切り替えをたえず行っているのである。その証拠に、同時に複数の役割行動を要求されるような状況に置かれると、言動がぎこちなくなる。

たとえば、上司と部下の双方と一緒の時は、それぞれに対する部下としての役割と上司としての役割を同時に意識しなければならないので、上司だけあるいは部下だけと一緒の時のように自由に振る舞えない。あるいは、得意先からの訪問客と業者の顔でへりくだって話しているところに自分の部下がやってきて、その部下と訪問客が友人同士であり対等に話し始めた時など、この上司はとるべき役割行動が混乱し、窮屈な思いをするはずである。

このようなケースでは、日ごろ自動化している役割行動の切り替えがうまく機能しなくなるため、心理的にも行動的にも動きがぎこちなくなるのである。逆にいえば、日常の人間関係、特に職場の人間関係を円滑に進めていくためには、その場その場での自分の役割、すなわち場面による自分の役割の変化を敏感に察知し、それにふさわしい行動をとる能力が欠かせない。

たいていはこうした役割行動の切り替えは自動化しているものだが、職場の人間関係をうまくこなせないという者は、この場面による役割とその変化を意識し、自分の切り替えの仕方に歪みがないかどうかチェックしてみたらどうだろう。

— posted by 有働 at 12:04 pm  

行動を共にすると相手に好感を抱く不思議

昼休みやアフターファイブに一緒によく食事したり飲みに行ったりする人たちの顔を思い浮べてみよう。かなり好感がもてる人たちが多いはずである。中には同僚だから仕方なく一緒に出かけること、か多いけれども、価値観がまったく違うので好意より反発を感じているという相手もいるだろうが、「根は悪い奴じゃないのだろうが」くらいの好意はもてるのではないか。

行動をともにする者に好感を抱く者が多いのは、好感をもっているからこそ一緒に食事したり遊びに行ったりするのだから当たり前のこと、行動をともにすることで好きになるのではなく、その逆ではないかという意見もあろう。もちろん、そういった面が強いのは事実である。だが、その逆の面もあるのである。

こんな心理実験がある。この後に共同作業をしてもらう相手のプロフィールがあるとして、ある人物のものの見方・考え方に関するデータを見せ、その人物に対する印象を問う。別の被験者たちは、特に会うことのない人物としてある人物のプロフィールを見せられ、その人物の印象を答える。この実験により、同じプロフィールであっても、この後に一緒に作業をする相手であると思い込まされた場合の方が、その人物の印象は肯定的なものとなることが示された。これから一緒に作業をすると思うだけで好意が生じたのである。

さきほどの常識的見解のように、好意をもっているから一緒に活動するというのが一般的である。したがって、好意をもたない者と一緒に行動するのは気持ちよいものではないはずである。「好意をもつ人と一緒に行動する」という文は頭の中にすっきり収まるが、「好きでない人と一緒に行動する」という文はどうも収まりが悪い。人間は矛盾を含む文を頭の中に刻んでおくのを嫌う。そこで、「一緒に行動する」という部分が書き込まれると、その前の部分はできるだけ「好きでない人」でなく「好意を感じる人」と書きたいという気持ちが無意識のうちに働く。

その結果、一緒に行動する人、あるいは一緒に行動すると予想される人に対する好意が生じるというわけである。同じ部署の人物同士のまとまりをつけるにも、ペアを組ませて仕事させたり、グループ作業をさせるのが有効といえる。どんな人物でも、好ましい面だけでなく、ちょっとどうかなと思ってしまう好ましくない面ももっているものである。一緒に行動しなければならないと思うだけで、相手の中の好ましい面に着目する心の構えができあがるのである。

— posted by 有働 at 01:37 am  

 

心理的距離が遠い者同士が相手との心理的距離を縮めるコツ

人と親しくなるのに時間がかかる者には遠慮深いタイプが多い。失礼にならないようにと気を遣うのは当然の心配りではあるが、あまり丁寧に遠慮ばかりされては窮屈である。遠慮というのは、心理的距離の遠い者同士の間に強く働く心理である。したがって、まだそれほど親しくなっていない間柄では、遠慮が強く働くのは当然のことである。しかし、知り合ってからもなお同様の遠慮が働くと、それは心理的な距離が依然として縮まっていないことを暗黙のうちに意味することになる。

いつまでたっても遠慮深さに変化の生じない人を前にして窮屈な感じを受けるのは、心理的距離が縮まった感じがしないからである。それぞれの心理的距離にふさわしい遠慮の程度といったものがある。心理的距離が縮まるにしたがって遠慮の仕方も変わっていくものだが、いつまでも同じ遠慮の仕方がとられると、いっこうに心理的距離が縮まった気がしない、つまり親しくなった気がしない。

遠慮深い人から見ると、「初対面であれではちょっと失礼なのではないか」と眉をひそめるようななれなれしい態度をとる者が、どういうわけか相手に気に入られ親しくなるということがある。これは、心理的距離の近い者同士に用いられる態度をとることで、初対面なのにあたかも心理的距離が近いかのような錯覚が生じ、実際に親しくなってしまうのである。つまり、心理的距離が近くなることによって遠慮が解けていくのを逆用し、遠慮を解くことで心理的距離を縮めていく。

遠慮を次第に解いていくにもコッがあり、そのあたりを心得ている者が、一見不遠慮なくらいのなれなれしさをもって実際にすぐ人と仲良くなっていく。心理的距離のもっとも遠い段階の遠慮の仕方をなかなか解けない者は、人との間の心理的距離を縮めるのが難しい。心理的距離のバランスを崩し、あたかも親しいかのような錯覚を生じさせる方法の一つに頼みごとがある。人に何かを頼むことは、その人に心理的負担をかけることでもある。そこを遠慮せずにあえて頼んでみる。すると二人は頼みごとができる間柄であるとの事実ができあがる。

負担が行き過ぎると拒否にあい逆効果だが、現在の関係からして少しどうかなと思う程度の頼みごとにより、心理的距離を一歩縮めることができるというわけである。ずうずうしいのは問題である。そうかといって、遠慮は人を遠ざける。人との心理的距離がなかなか縮まらないという人は、遠慮の仕方を振り返ってみるのがよい。遠慮を徐々に解くことによって心理的距離を縮めていくのである。

— posted by 有働 at 01:33 am