役割行動をうまくこなせば人間関係はスムーズになる

ある男性が帰宅する。居間には妻と子どもがいる。そこでは妻を「おかあさん」と呼び、自分を「おとうさん」と呼ぶ。やがて子どもが寝て夫婦二人きりになると、妻に対して「○○子」と名前を呼び捨てにし、自分を指すのに「俺」とか「僕」とかを使う。

この場合、単に言葉遣いが違うだけでなく、それぞれの場面におけるこの男性の自分のかたち、いわゆる心理的構えも異なるはずである。子どもと一緒の場では「父親」の役割を意識した心理的構えをもち、それにふさわしい言動をとる。夫婦だけの場では「夫」の役割を意識した心理的構えをもち、それにふさわしい言動をとる。このようなその場の役割にふさわしい行動を役割行動という。

この男性も、職場ではまた違った役割行動をとることになる。例えば、課長という役割にふさわしい行動をとる。だが、職場のようないろいろな役割が錯綜する場では、誰もが多くの役割行動を場面に応じて使い分けなければならない。

部下の前では上司としての役割を意識した行動をとり、上司の前では部下としての役割を意識した行動をとる。同僚と一緒の時は対等な仲間あるいはライバルとしての役割を意識した行動をとり、得意先からの訪問客の前では世話になっている業者としての役割を意識した行動をとる。

このように複数の役割行動を場面に応じて自由自在に操ることができないと、社会生活を無事に送ることはできない。われわれはふだんそれほど意識していないけれども、ほとんど自動的に役割行動の切り替えをたえず行っているのである。その証拠に、同時に複数の役割行動を要求されるような状況に置かれると、言動がぎこちなくなる。

たとえば、上司と部下の双方と一緒の時は、それぞれに対する部下としての役割と上司としての役割を同時に意識しなければならないので、上司だけあるいは部下だけと一緒の時のように自由に振る舞えない。あるいは、得意先からの訪問客と業者の顔でへりくだって話しているところに自分の部下がやってきて、その部下と訪問客が友人同士であり対等に話し始めた時など、この上司はとるべき役割行動が混乱し、窮屈な思いをするはずである。

このようなケースでは、日ごろ自動化している役割行動の切り替えがうまく機能しなくなるため、心理的にも行動的にも動きがぎこちなくなるのである。逆にいえば、日常の人間関係、特に職場の人間関係を円滑に進めていくためには、その場その場での自分の役割、すなわち場面による自分の役割の変化を敏感に察知し、それにふさわしい行動をとる能力が欠かせない。

たいていはこうした役割行動の切り替えは自動化しているものだが、職場の人間関係をうまくこなせないという者は、この場面による役割とその変化を意識し、自分の切り替えの仕方に歪みがないかどうかチェックしてみたらどうだろう。

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— posted by 有働 at 12:04 pm  

行動を共にすると相手に好感を抱く不思議

昼休みやアフターファイブに一緒によく食事したり飲みに行ったりする人たちの顔を思い浮べてみよう。かなり好感がもてる人たちが多いはずである。中には同僚だから仕方なく一緒に出かけること、か多いけれども、価値観がまったく違うので好意より反発を感じているという相手もいるだろうが、「根は悪い奴じゃないのだろうが」くらいの好意はもてるのではないか。

行動をともにする者に好感を抱く者が多いのは、好感をもっているからこそ一緒に食事したり遊びに行ったりするのだから当たり前のこと、行動をともにすることで好きになるのではなく、その逆ではないかという意見もあろう。もちろん、そういった面が強いのは事実である。だが、その逆の面もあるのである。

こんな心理実験がある。この後に共同作業をしてもらう相手のプロフィールがあるとして、ある人物のものの見方・考え方に関するデータを見せ、その人物に対する印象を問う。別の被験者たちは、特に会うことのない人物としてある人物のプロフィールを見せられ、その人物の印象を答える。この実験により、同じプロフィールであっても、この後に一緒に作業をする相手であると思い込まされた場合の方が、その人物の印象は肯定的なものとなることが示された。これから一緒に作業をすると思うだけで好意が生じたのである。

さきほどの常識的見解のように、好意をもっているから一緒に活動するというのが一般的である。したがって、好意をもたない者と一緒に行動するのは気持ちよいものではないはずである。「好意をもつ人と一緒に行動する」という文は頭の中にすっきり収まるが、「好きでない人と一緒に行動する」という文はどうも収まりが悪い。人間は矛盾を含む文を頭の中に刻んでおくのを嫌う。そこで、「一緒に行動する」という部分が書き込まれると、その前の部分はできるだけ「好きでない人」でなく「好意を感じる人」と書きたいという気持ちが無意識のうちに働く。

その結果、一緒に行動する人、あるいは一緒に行動すると予想される人に対する好意が生じるというわけである。同じ部署の人物同士のまとまりをつけるにも、ペアを組ませて仕事させたり、グループ作業をさせるのが有効といえる。どんな人物でも、好ましい面だけでなく、ちょっとどうかなと思ってしまう好ましくない面ももっているものである。一緒に行動しなければならないと思うだけで、相手の中の好ましい面に着目する心の構えができあがるのである。

— posted by 有働 at 01:37 am  

 

心理的距離が遠い者同士が相手との心理的距離を縮めるコツ

人と親しくなるのに時間がかかる者には遠慮深いタイプが多い。失礼にならないようにと気を遣うのは当然の心配りではあるが、あまり丁寧に遠慮ばかりされては窮屈である。遠慮というのは、心理的距離の遠い者同士の間に強く働く心理である。したがって、まだそれほど親しくなっていない間柄では、遠慮が強く働くのは当然のことである。しかし、知り合ってからもなお同様の遠慮が働くと、それは心理的な距離が依然として縮まっていないことを暗黙のうちに意味することになる。

いつまでたっても遠慮深さに変化の生じない人を前にして窮屈な感じを受けるのは、心理的距離が縮まった感じがしないからである。それぞれの心理的距離にふさわしい遠慮の程度といったものがある。心理的距離が縮まるにしたがって遠慮の仕方も変わっていくものだが、いつまでも同じ遠慮の仕方がとられると、いっこうに心理的距離が縮まった気がしない、つまり親しくなった気がしない。

遠慮深い人から見ると、「初対面であれではちょっと失礼なのではないか」と眉をひそめるようななれなれしい態度をとる者が、どういうわけか相手に気に入られ親しくなるということがある。これは、心理的距離の近い者同士に用いられる態度をとることで、初対面なのにあたかも心理的距離が近いかのような錯覚が生じ、実際に親しくなってしまうのである。つまり、心理的距離が近くなることによって遠慮が解けていくのを逆用し、遠慮を解くことで心理的距離を縮めていく。

遠慮を次第に解いていくにもコッがあり、そのあたりを心得ている者が、一見不遠慮なくらいのなれなれしさをもって実際にすぐ人と仲良くなっていく。心理的距離のもっとも遠い段階の遠慮の仕方をなかなか解けない者は、人との間の心理的距離を縮めるのが難しい。心理的距離のバランスを崩し、あたかも親しいかのような錯覚を生じさせる方法の一つに頼みごとがある。人に何かを頼むことは、その人に心理的負担をかけることでもある。そこを遠慮せずにあえて頼んでみる。すると二人は頼みごとができる間柄であるとの事実ができあがる。

負担が行き過ぎると拒否にあい逆効果だが、現在の関係からして少しどうかなと思う程度の頼みごとにより、心理的距離を一歩縮めることができるというわけである。ずうずうしいのは問題である。そうかといって、遠慮は人を遠ざける。人との心理的距離がなかなか縮まらないという人は、遠慮の仕方を振り返ってみるのがよい。遠慮を徐々に解くことによって心理的距離を縮めていくのである。

— posted by 有働 at 01:33 am  

 

口下手でも聞き上手は相手の心を開かせる最大の武器になる

営業マンなど人と交渉することの多い職種の人は、何とか話上手になれないものかと雑談のネタを仕入れたり軽やかな話し方を意識したりと苦心しているものである。そうした努力も大事だが、人と交渉するのがやや苦手という人がまず身につけるべきは、相手を気持ちよくしゃべらせる技術ではないか。

話上手の人がさぞかし活躍しているだろうと一般に考えられているセールスでも、意外なことに成績のよい者には内向型が多いという。内向型の人間は、概して初対面を含めてよく知らない人としゃべるのが苦手である。よく知らない人を前にすると、何をしゃべったらよいのかわからない。「こんなことを言っては失礼になるのでは」「気を悪くしたのではないか」「もっと明るく楽しい話をしなければ」など、気を遣うばかりで会話が滞りがちになる。その不器用さが信頼に結びつくということであろうか。

明るい声であいさつをし、楽しい雑談を交えて流暢に説明する人に対すると、「やり手の人だな」との印象を受けるが、その分警戒するということがある。あまりに饒舌で調子のよい者より、口下手ながら一所懸命説明しようとする者の方が、相手としては安心である。

さて、ロ下手な者はもちろんのこと、話上手の者も身につけるべき聞き上手の秘訣とはどんなものだろうか。ポイントは、相手に気持ちよく話させることである。頻繁にうなずくことで、話し手は気分が乗り饒舌になっていく。そして、「なるほど」「そうですね」などと合いの手を入れる。これだけでも共感しながら耳を傾けているというこちらの姿勢は伝わり、相手は気分よく話すことができる。さらに、時々相手の語尾を繰り返すのも有効である。

「その時は本当に腹が立ちましたよ」に対して「それは腹が立ちますね」、「そんなわけで予想がはずれましてね」に対して「はずれましたか」といった具合に。相手の話す出来事・体験談などに類似した知識なり体験がこちらにある場合は、それを披露すればこちらの共感性はよりよく伝わるし、共通性が両者の壁を薄くする。

対話のやりとりのタイミングも大切である。向こうが話しているのに割り込むようなことはしない。言葉が途切れがちにしゃべる人、話し始める前にひと呼吸置く人、強引に会話に割り込むのが苦手な人などは、話す番をすぐ人に持っていかれがちである。そんなタイプの人には十分配慮し、相手の言葉が途切れたからといって急いで話し始めないようにする。

また、自分が話している時、あるいは話し始めた時に向こうが話し出そうとしたら即座に譲る。自分が話すことでアピールするよりも向こうに気持ちよく話してもらうことの方が大事なのであるから、言葉が重なったら必ず譲るのがよい。こうした配慮のもと気持ちよく話してもらうことで、相手の気持ちは和らぎ自分に対する印象は好意的なものとなる。相手の心を開かせるのは何といっても聞き上手である。

— posted by 有働 at 01:28 am  

 

現代に大いに求められる「聞き役」

現代は饒舌の時代である。女は控えめがいい、男は黙っているもの、と控えめや沈黙が重んじられた時代と違って、今はしっかりと自己主張するのがよいとされている。女性のおしゃべりというのは昔からあったが、男性も軽やかに言葉遊びを楽しむようになった。みんなが饒舌になると、にぎやかで楽しい光景があふれてくる。それはそれでよいのだが、何か満たされない感じがどこかに残る。

昼間の喫茶店をのぞいても、夜の居酒屋やパブをのぞいても、老若男女よくしゃべる。すさまじい喧騒である。特に、夜の酒の場ともなると、よほど大きな声でないと会話が成立しない。元気にはしゃいだり、陽気にからかい合ったり、カラオケを楽しんだり。昼間の職場のストレスを一気に吹き飛ばす勢いがある。

そこに足りないものはといえば、心からの対話ではないか。その場を楽しいものへと盛り上げることばかりをみんなが意識する。最近体験したおかしな出来事やちょっとした笑い話、共通の知人のうわさ話などをおもしろおかしく披露したり、ジョークをとばすことはできる。

だが、ふと胸をよぎる孤独や虚しさ、人生の意味や現在の自分の生活に関する疑問や悩み、そんなものをロに出すにはよほどの勇気がいる。勇気を出して内面的な話を持ち出したところで、「ドライ」のご言で片づけられたり、笑い話のネタにされたり、何を場違いなことを言うのだろう、と言いたげな視線で無視されたりということになりがちである。

今や朕病の時代といった観がある。深刻ぶるのは流行らない。軽いノリで楽しくいこう。そうした雰囲気ゆえに、孤独や虚しさ、人生の意味に関する疑問や悩みといった、みんなと一緒の場に持ち出しにくい深刻で暗めの思いが、胸の中に押し込められたままとなる。

こんな時代にこそ求められるのが、静かに胸のうちを吐露するのに付き合ってくれる相手である。おもしろくない話であっても、自分とは境遇や感受性が違い過ぎて共感できないというような話であっても、一切の批評抜きに、無条件に耳を傾けてくれる相手である。これはまさにカウンセラーの役割である。

同業者の首を絞めるようで申し訳ないが、職業人に頼らずに友人同士でこうした役割を必要に応じて分担するのが望ましい。にぎやかな時代だからこそ、静かに耳を傾けてくれる聞き手を誰もが密かに求めているのである。まずは、仲よく騒いでいる仲間にとってのよい聞き手となるよう意識してみよう。きっと相手もよい聞き手になってくれるであろう。

— posted by 有働 at 01:14 am